声の大きいひとりごと

全ては私の愛ゆえの独断と偏見。

今週のお題で日記

今週のお題「特大ゴールデンウィークSP」


10連休はバイトしてました。

飲食店なのでね、サービス業に連休なんてないし就活生だからここぞとばかりに働いた。


からどうしても能動的な日記ではなく受動的な日記になってしまうわけで。まあ遊んだ日も1日あるんだけど、それはあまりに平和だったから置いておく。


私が記憶に残ったのは梅田の大丸での飛び降り自殺。

真っ先に感じたのはコンテンツとして消費されるんだなということ。


大丸の屋上に女子高生が立ったことも、警察が40分以上説得したことも、みんなが上を見上げスマホを構えたことも、それを風刺したツイートが流れたことも、飛び降りた時に肉片が飛び散ったことも、嫌な臭いが辺りを包んだことも、あいみょんの歌詞が拡散されたことも、全てコンテンツの1つにすぎない。


日常の話題の1つにすぎない。


だって他人事だから。

今私のやっていることも漏れなくそうだ。

他人事を受けて自分の日常を省みる材料にしかならない、話のネタにしかならない。

でもそれの何がいけないんだろう。


不謹慎だから?

でももう本人死んでるよ、理由は知らないけど終わりにしたんだよ、終わりにしたんだから不謹慎とかあんのかな。


私は霊とか念とかそういうのを信じている(からこそ霊感がなくてよかったーって思うタイプな)んだけど、だからスマホで自殺の現場を撮ろうとは思わない。怖いじゃん。


スマホで撮影した人はなにも考えてないんじゃないかな、非日常だ!ってしか思ってないんじゃない?

多分猫が変な座り方してる!みたいなテンションと変わらない気がする。


私たち、もう死に慣れちゃってるじゃないですか。もう至る所にフィクションの死が溢れてるじゃないですか、それも残忍な。

私も漫画好きの端くれだから色々読んでるけど、気持ち悪いくらい人が死ぬ。暗い話でも明るい話でも人が死ぬ。

人が死ぬゲームとか、死んだ人間がゾンビになって感染したりとか、なんだったら人が死んでから生き返りを賭けたゲームとかしちゃうじゃん。

漫画も、映画も、アニメも、ニュースでも引くほど人が死んでる。


だからもう私たちにとって自殺ってイレギュラーな事ではないんですよ。ああ、自殺ね、はいはい、なるほど。初めて生で見たなー。くらいの。だって人身事故も自殺だし。日常だよ。

明日になったら忘れるよ、当たり前だよ。知らない人だもん。


リストカットしてる人間なんか周りにたくさんいる。

なんだったら自殺した知り合いもいた。

私自身明日目覚めなくてもいいやと思う。


別に命の価値が〜とか言いたいわけではなくて。


それくらい死ってフラットな日常的なものになってるのかなって思った。ただそれだけ。それが善とか悪とかはまた別の話。



私にとって、いつか死ぬことが生きる希望です。どんなに辛くても悲しくても痛くても、いつか必ず終わりが来るから、人生なんて所詮死ぬまでの暇つぶしって本気で思ってる。


だから全然病まないしすごくポジティブな人間だと思われてる。


本当はいつだって死んで終わりにしてやるって思ってるネガティブな人間なのにね。


どうか私の死もコンテンツとして消費されますように。